鍵盤ゆういち日記
ヒトリブン
2006/09/22(Fri) 12:35:38



長袖ジャージを羽織ってきたのは軽く失敗だった。

男にしてはだいぶ長い襟足がうっとおしいほどかかる首筋に
じっとり汗を感じるぐらいの秋の陽気の中、
明大前で井の頭線が来るのを待っていた。

それにしてもこの電車はいつも混む。
自分が、並んでいる列の12番目ぐらいである事を考えると
今回もその混雑からは免れそうにない。
長袖ジャージの失敗がまた、加速度を増す。



電車に乗るとやはり、混んでいた。

運良く、冷房がさらりとあたる場所だったため
暑苦しさからはだいぶ逃れられたが
まあどこかしら周りの人とは体が触れている感じ。
動けるスペースなんてほとんどない。
前の人の登山級のリュックが少し息苦しかったが
普段、鍵盤を持ち歩いている俺の迷惑度なんてこんなもんじゃない。
むしろこの状況で文庫本を広げる隣のおにーさんに、
ちょっと東京を感じていた。

ふと、一番端の席に座る女性と目が合った。
キレイな人なのは一瞬でわかった。



各駅停車なので次の駅で止まる。
誰か降りねーかなとは思ってたが、そんな都合のいい事など起こるはずもなく
やはりむしろ乗ってきた。
2,3人ではあったが、車内密度は当然また上がる。
その中の一人におじいちゃんがいた。
いや、正確にはおじいちゃんではないのかもしれないが、
外見的には65歳はゆうに越えてるであろう男の人だった。

一番端、つまり乗降扉に一番近い場所に座っていたその女性は
いち早くそのおじいちゃんに気付き、
「どうぞ」という声とともに席を立った。


自分も何回か席を譲ったことがあるのでわかるが、
こういうのは「どうぞ」という声をかけるだけでは成立しない。
たいていの人が遠慮するからだ。
本当に譲る意思があるなら、まず席を立つ。
そういう意味でこの女性の行動は正しいと思った。





ただ、そのおじいちゃんは断った。



本来ならそのおじいちゃんのいたスペースに移動しようと思ってたその女性は
実に行き場がなく、だいぶ窮屈な状態でつり革を握ることになってしまった。
プシューという扉が閉まる音とともに
その半径1mが妙にきょとんとした空気の中、電車は走り出した。

席は1つ、空いたまま。





どっちも悪くない。
その女性も、おじいちゃんも。

お年寄りが来たので席を譲ろうとして、
最初は断られたけど、またいつか座るかもしれないと立ち続けたその女性はもちろん、
せっかくの好意とはいえ、それを受け入れなかったおじいちゃんだって、
悪くはない。

もしかしたら足腰を鍛えているのかもしれないし、
まあそうじゃないとしても席に座るか座らないかなんてのは
その人の自由。
「せっかく譲ってもらったんだから意地張らないで座ればいいのにねえ」
なんてのはかなり上からものを見た意見だと俺は思う。
「お年寄り」=「みんな座りたい」とは限らない。
まあ実際ほとんどがそうかもしれないが、中にはきっと違う人もいる。
その理由が例え「意地」だったとしても
それをどうこう言う権利なんて、ない。



結局、プラス一人分の混雑を招いただけになってしまった
その女性のなんともいえない表情が、印象的だった。

いかんともしがたい一人分の空席を乗せながら
電車は渋谷駅へと向かう。





確かにあのおじいちゃんが座れば、
あの女性にとっても、そのまわりの人にとっても、俺にとっても
きっとベストエンディングだった事には変わりはない。
ただその、みんなが望むベストエンディングを
本人も望んでいるとは限らないんだ。
難しいもんだなあ。



渋谷駅に着く。

今度自分が譲る時がきたらどうしよう、
いや、いつか自分が譲られる時がきたらどうしようか、なんて考えてはみたが、
明日の事もわからないのに
40年後の事なんてわかるわけねーか、と早々にあきらめて
足早に改札へ向かった。

人でごった返すこの駅に、空想する時間なんてない。






「まもなく発車です」

対面の満員電車が、またホームを出て行く。



                      かしこ



今日のBGM:「ピアノ・ソナタ 第14番 月光」 by ベートーヴェン
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