野村俊彦 空想体操

2000年4月

 第一回目の空想体操の感想を何人かの人が僕に話したんだけど、空想を評価されるってのもおかしなもんだ。じっくり読まれてるって考えると恥ずかしいもんで、新聞にはさまってくる広告ぐらいの扱いでいいんですよ。広告って案外楽しかったりするし。でも、感想が脳に現れるわけでもないし、それぐらいが心地よい。
 僕は二〇〇〇年四月の十一日で二十三歳。結構生きている。「23」だけに「兄さん」。こんな下らないダジャレが徐々に「くだる」ようになってきたところをみると自分もいい大人になってきたもんだ。
 今回は、100万円ぐらい落ちてないかなと思ってて、そんで宝くじが確実に当たれば、なんて勝手に考えてみた。

〜今回のターゲット 宝くじで百万円が当たる自分〜

 街中を歩く。今日に対する目的はまだない。すると一軒の宝くじ屋の前を通る。「宝くじなんて……」という思いに反して目は好奇心の色を隠せない。店には、『年末ジャンボ宝くじ 3等100万円 当店からでました』と自慢気に張り紙。確かにジャンボ。『宝』の『くじ』で『宝くじ』。このなんて安易なネーミングに完敗。そこで今日の目的が決定。買ってみよう。一度買ってみよう。宝くじを買うのは初めてではないが、過去は過去。この『一度』という気持ちが大切。

 前で40〜50代ぐらいのおやじが「夢を買う」などと言う。確かにそのおやじから他の夢は見当たらない。自分もそんなおやじになったら小銭で夢を買いに来ることをとりあえず決心する。しかし今日は違う。あまり気張らずに「何気」という気分で買う。

 多くの人間が残した「欲」をかき分け、自分も自然と溢れ出た「欲」を残し、代金を「今はただの紙切れ」と交換する。この時、もうすでに「何気」ではない。「何気」を装うことはする。

 帰り道、いつもは素通りするお地蔵さんがどうも気になる。周りに人がいないということを確認し、軽いが重い会釈をする。

 宝くじを手にし、時間が経ってくると、店の前にいたおやじの言う「夢」が共感できてくる。「当たったら何を買おう。」と。欲しい物を浮かびあげようとする超ポジティブな自分が登場するのだが、「そんなもの当たる訳ない。」と冷静でいようとする自分が割り込む。しかしこの冷静な自分は「当てたい」と思いすぎると逆に当たらないんじゃないか、という考えから生まれたもの。超ポジティブな自分よりもきっと「欲」の度合いは大きい。頭の中で、人間丸出しの会議はこうして行われる。

 当選発表当日まで宝くじの存在は、店に並ぶ気になる商品の前になるといつも現れるのだが、その券の人気は日に日に落ちてゆき、だんだん元の姿の「紙」に近づいてゆく。

 しかし当選発表当日、その人気は一気に浮上。前日から遠足気分の自分は、運を出来る限り外に出さぬよういつも通りの動きに努める。当選番号は新聞等で確認できるが直接店に向かう。「無心で、無心で。」こう言い聞かせながら向かう。しかし頭の中は無心というよりも、「無心」という漢字でいっぱいになっている。それには気付かない。気付こうとしない。

 途中の信号は「青」。妙に嬉しい。「次の信号も青なら当たる。」と自然と勝手なミニゲームが開かれたりもする。

 そして目的地に到着。今、親よりも信頼できる店のおばちゃんにくじを渡す。見てもらう。このおばちゃんに光りを、愛を。するとなんと100万円大当たり。いや、「なっなっなんと100万円大当たーりー」。当たりくじからこぼれんばかりの光が。現在日本で一番ぎこちないリアクションで喜ぶ僕の中で陽気で明確なリアクションのアメリカ人たちが大騒ぎ。パイ投げ開始。体内中でパーティーが。

 ああ、本当に当たってしまった。何を買おう。何を食おう。本当にパイ投げでもするか……財布の中のはした金で買ったくじが、財布の中の金をはした金へと化した瞬間。成り上がり。この100万円、本当に何に使おう。
 まあ、それは実際に100万円当たったときに考えてみよう。

ベース 野村