野村俊彦 空想体操

2000年9月

「〜がめっちゃ好き」と発言した人の「めっちゃ」ってのは、最近どうも信用しがたい。「めっちゃ」という言葉はあまりにも濫用されすぎていて、「好き」と「めっちゃ好き」の差がほとんど感じられない。それに比べて、「無類の〜好き」って言葉は、非常に良い。僕はこの言葉が大好きだ。「無類」=くらべるものがないこと。なんて立派な言葉だ。僕も「無類の〜好き」になりたいのだが、そう言い切れるものがない。この言葉を使うなんて、たいへん申し訳ない。ところで、僕は最近、抹茶味のアイスなどがおいしく思えている。そこで、もし自分が無類の抹茶好きだったら、無類と言い切るってのはどのくらい好きであれば許されるのか、なんてことを空想してみた。

〜もし 自分が無類の抹茶好きだったら〜

 抹茶に恋焦がれるほど好きになってからもうどれくらい経つのだろう。抹茶アイス、抹茶チョコ、抹茶プリン、抹茶ポッキー…「抹茶」と名のつく商品は手当たり次第口にしてきた。しかし全く飽きない。コアラがユーカリの葉を毎日バカみたいに大喜びで食うように、神が自分に与えた最高の食材は抹茶だったのではないだろうか。そう信じているほどだ。

 最近では「抹茶」という言葉までもが魅力的で、堺正章、久本雅美が「マチャアキ」「マチャミ」と呼ばれているのが正直羨ましい。ああ、自分も「まさ〜」だったら、「まっちゃ」なんてあだ名が自然なのに。いっそのこと名前を「野村抹茶」に改名してしまおうかとも悩んでいる。しかしこんなどこぞのアメリカ人みたいな発送もアメリカ人でないため実行に移せない。やはり世間体を気にしてしまう。親にも言い出せるわけがない。どこの親が「抹茶」に改名することを許すだろうか。ああ、アメリカ人に生まれればよかった。病院とかで「野村抹茶さま」って呼ばれたい。絶対に心地いいはず。
 そんなことを考えていると今日も抹茶が恋しくなったのでいつものコンビニへ向かった。

 今日は暑いので、抹茶アイスを買うことにした。コンビニの店員に金を払い、とっとと店を出た。しかしそこで妙な考えが現れる。
「俺、毎日同じコンビニで抹茶味の食べ物を買っている」
「店員たちに、『抹茶の人今日も来てるよ。今日は抹茶味の何を買うか賭けようぜ』なんて小ゲームをされてるんじゃないか?」
「まさか『抹茶くん』なんてふざけたニックネームまでつけられてるんじゃないか?」  妙に「自分」と「抹茶」がバカにされているような気がどんどんしてきた。そう考えると、抹茶が恥ずかしい食材に思えてきた。
 しかしせっかく買ったので、アイスを口に入れた。
「うまい!抹茶様、恥ずかしい食材なんて言ってごめんなさい。」
 自分はなんて愚か者なんだ……

 数日後

 抹茶味のものを毎日口にしてきた僕は、実は本物の抹茶を飲んだことがないことに気付く。今になって気付く。そこで期待に胸膨らませつつ、本物の抹茶を飲みに向かった。
 とても落ち着いた空間の中で、僕は初めて抹茶を口に含んだ。
 3秒停止。「あれっ?」疑問。あたりを見渡す。落ち着く。そして再び口に含む……もう一人の自分が現れ、耳元でこう囁く。
「あまりうまくない。苦いだけだ」

 そう、僕は「無類の抹茶好き」ではなく「無類の抹茶風味好き」だったのだ。事実発覚。これは激ショッキング。「野村抹茶風味」なんて、カッコ悪くて改名できるわけがねえよ。

 「無類の〜好き」になるのはそう簡単にはいかない……

ベース 野村